2008年3月26日水曜日

となりの認知症  

★ となりの認知症  ある(哲学者・看護師)より

介護の歴史示すCT画像    
ある日、認知症ケアに関する後援を終えた後、もう一人の講師から
声をかけられました。
二十数年前、認知症の母を介護した経験を持つ男性です。
大きなフィルムを手渡されました。それは、脳の
コンピューター断層装置(CT)画像フィルムでした。
「かなりの萎縮があるでしょう」「お母さんのCTですか」
「そうです。ずいぶん古いCTですが」「そのころ、まだ珍しい
検査ですよね」「ええ、ずいぶんと苦労しました」
「そうでしょうね」と会話は短く終わってしまいました。
年老いた母の言動に、もの忘れが目立ちはじめる。
最初は年のせいだと納得していたが、徐々に説明のつかない
異常事態が頻発するようになる。
日常の暮らしに叱責(しっせき)と抗弁が渦巻き、
家族の平安が破られていく。小さな渦は不気味に広がり、
勢いを増して周囲の者たちを巻き込む。
途方に暮れる一歩手前で病院の門をくぐり、「アルツハイマー」
という診断とともに、これまでの謎がCTの白黒で説明された。
同時に根本的治療法のない病気であることも伝えられた。
病院に救いはなかった―。
認知症の理解に、医学的な知識は抜きにできません。
でも、それは出発点にすぎない。希望のありかを
医学的診断が教えてくれるわけではないのです。
萎縮した脳を、認知症の人そのものだと考えれば絶望する
しかありません。愛(いと)しい人が苦しみ悩む姿の背後に
脳萎縮という棘(とげ)がある。
簡単に抜きたい棘の痛みを、どうやってしのいで
いくのか。その人と一緒に工夫していく正の中にだけ、
明かりが灯(とも)されるのです。
息子は母が病気であることを知って、母と争うのではなく、
母とともに病気と戦う道を歩みはじめました。
紆余(うよ)曲折の道のりに手を離すことのなかった親子の、
長い手探りの介護の歴史の始まりが、一枚のCTフィルムにあったのです。
ぼくはCT画像の中に具体的な老いの苦しみを読み取ることはできません。
乏しい解剖学的知識が浮き沈みするだけです。しかし、CTフィルムを
母の遺影のように大切にしている家族の気持ちは、複雑なものとして
ぼくに伝わってきました。